月刊ガンジー5月号

主にアンレールドとサーモンランについて書く思考録。

ガンジー・ウンチ Vol.2

この記事の文章量は約11000字である。人が文章を読む速度はだいたい1分間に500文字らしいので、11000字読むとなると22222分かかる計算である。いや、これはウソで、22分かかる計算である。ということで、この記事はぜひ時間のあるときにコーヒーでも飲みながらゆっくり読むか、時間をおいて少しずつ読むか、あるいは途中で興味がなくなったらもう読むのを打ち切ってもらってもかまわない。As you like it! ――お好きなように。

私は先日ガンジー・ウンチ Vol.1を投稿した。Vol.はVolumeの略である。Volumeはコミックスなどの分割された作品につけられる表記であり、「巻」「冊」などと訳される。つまりVol.1は「第1巻」みたいな感じである。そして、Volumeの一般的なカタカナ表記は「ボリューム」である。

ボリューム……私はここでハッとなった。私と波長の合う読者ならもうおわかりだろう。そう、「ボリューム」という響きがまるで排泄音のようではないかと思ったのである。

排泄音を表すポピュラーな擬音語には「ブリッ」「ブリブリ」「ブリュリュ」などがある。また、脱糞の響きを持つことで知られる言葉に「ニュルンベルク(ドイツの市)、「ブリュンヒルデ北欧神話の人物)などがある。こう考えてみると、「ボリューム」にもそこはかとなく脱糞の響きを感じないだろうか? ガンジー・ウンチに添える記号にまさにふさわしい!

ところで私は、上の段落で「ポピュラー」という単語を用いた。ここで立ち止まって考えていただきたい。ひょっとするといまあなたは、「ポピュラー」に……排尿の響きを感じたのではないだろうか。もしそうであれば、あなたの認知にはガンジー・ウンチがじわじわと浸透している。あなたは考える。「このままだとヤバい。いまなら引き返せるか……

正直に言うと、私は記事の執筆にあたってウンチにこだわるつもりはまったくない。私がこの記事にガンジー・ウンチというタイトルをつけたのは、あくまで「ファルコン・ランチのように気軽に投稿された雑記ですよ」という思いを込めたかったからである。決してウンチについて書きたかったからではない。Vol.1にしても、主題は記事後半の「『野良に迷惑をかけてはいけない』という言説を見て私が考えたこと」である。

だからウンチを期待している人には申し訳ないが、たぶんもうすぐウンチネタは書かなくなるだろう。べつにウンチが主題ではないし、だいたい、ウンチネタはそろそろネタ切れだ。したがって、ガンジー・ウンチによる認知のピンチを心配しておられる方にはご安心いただきたい。

 

💩

 

さて、ボリュームの話は終わりである。前回のガンジー・ウンチ Vol.1はどうだっただろうか。自分で言うのもなんだが、けっこう読んでいて面白い文章だったのではないだろうか。ギャグセンスが合わないとか、主義主張が合わないとかいう人にはまったく面白く感じられなかったかもしれないが、面白いと感じた人もそれなりにいてくださったと思う。

ここで勘違いしてほしくないのが、ガンジー・ウンチが面白かったからといってべつに私が面白いということにはならない、ということである。私が面白いのではない。多くの人間にとって、文章を読むことはそれ自体楽しく、人の考えを理解することはそれ自体楽しい。そして、ウンチはウンチであるだけで面白い。そういう当然の楽しさや面白さを最大限に利用して書いたのが前回のガンジー・ウンチである。

ようするに、ズルいのだ。ウンチ、ウンチと言っているだけで一定の面白さが担保されてしまう。私は気の利いたジョークをとっさに出すことができないので、そういうズルを使ってせめてもの面白さを演出している。

しかしこのテクニックには危険なところもある。一番気を付けなければならないのは、下品であることである。まさかウンチが上品であると思っている人はいるまい。いい大人がウンチ、ウンチなどと言って喜んでいたら知性と品性を疑われ、ドン引きされてしまう可能性すらある。

また、ギャグセンスが合わない人にはまったく面白いと思ってもらえない。ウンチが面白いという人にはとことん刺さるが、そうでない人には「なに言ってんだこいつ」と思われておしまいである。幸いなことにウンチが面白いという人はそれなりに多いとお見受けしているが、そうでない人もたくさんいるに違いない。

ちなみに、Twitterで私がギャグセンスのずれを大きく感じた一件がある。それはこういう話だ。著名人であるR氏がTwitterで「パンケーキを揺らしてふわふわ感を楽しむ」というツイートを投稿したところ、R氏の兄であるD氏が「この時、俺はパンケーキでなく、美女の乳を揺らしていた」というリプライを送ったのである。私は申し訳ないことにこのリプライに面白さを一切見出すことができず、それどころか内容の下品さにドン引きしてしまった。しかしふつうに考えれば、D氏はもちろんこのジョークを面白いと思って投稿したのだろう。ここには致命的なギャグセンスのずれがある。

このように、私のガンジー・ウンチも誰かにとってはドン引き対象になっている可能性が大いにある。ウンチは諸刃の剣なのである。もしこれを読んでいるあなたが中高生で、ガンジー・ウンチに刺激を受けて学校に提出する書類(たとえば卒業文集)にウンチを盛り込もうとしているなら、私は全力で止めにかかる。ウンチは周囲の心証を著しく損ねる可能性があり、教師の人格次第では内申点に響き、そして他ならぬあなた自身が大きな後悔に襲われるかもしれないからである。

もしあなたが私のような人間性……すなわちトラブルの責任をなにかと他人に押し付けようとする他責思考で他罰的なクソ野郎だったら、好きにしてくれてかまわない。ウンチでトラブルを起こしてから「お前のせいだクソ野郎!」と私に殴りかかってくるとよい。その場合、私は「知るかクソ野郎!」とあなたを殴り返す。これで私たちは対等である。

困るのは、あなたが自責思考で自罰的で謙虚で立派な人間であった場合である。ウンチでトラブルを起こし、それなのに私のせいにはせずに「なぜ自分はあんなことを」とひとりで深く後悔する……私はこのような悲しい事態だけは避けたい。だから読者の方々におかれては、話にウンチを練りこむさいにはくれぐれも後悔のないように慎重を期していただきたい。

 

💩

 

ちなみに後悔に関連した話をすると、たぶん私は人より後悔しないほうである。理由は三つある。

第一に、私は自分自身を大して信頼していない。後悔は「いまよりも優れた自分の可能性」に対して生じる。「過去に実際の歴史とは異なる選択をしていれば、いまごろ自分はもっとよい状態にあったハズ…」という気持ちがあるから後悔するわけである。しかし残念ながら、私はそこまで自分のことを信頼していない。過去の選択が違っていればいまよりもよい自分になれたはず、なんて自信を私は自身のどこにも見出すことができない。だから後悔も生じない。

第二に、私は楽観主義である。向上心に欠け、現状に満足しやすい。「いまの状態は自分の可能世界のなかでも最善だ」と特に根拠もなく信じる傾向がある(可能世界というのは可能性としてありえたあらゆる世界線のこと)。たとえば、私は学校で3年間同じクラスで生活したとき、なにも比較検討せずに「自分はこのクラスでよかった」「このクラスは最高だった」という肯定心を得がちである。そして現在を肯定するならば、すべての過去も肯定するのが論理的に正しい態度である。なぜなら、少しでも過去が違っていれば現在はまったく違う姿になっていたはずだからであるバタフライ効果と呼ばれる)。過去があったから現在があるわけで、現在を肯定するなら現在の原因となった過去も肯定せざるをえない。

第三に、私は決定論的な世界観を持っている(たぶん)決定論的な世界観というのは、「世の中のすべての出来事は因果関係によってあらかじめ決定されていて、一見すると自分の自由意思で決定したように見える選択、あるいは自分の努力で勝ち得たように見える成果も、すべては客観的にあらかじめ運命として決まっている」という感じの世界観である。決定論的な世界では「あのとき違った行動をしていれば…」なんて後悔は無意味だ。なぜなら、決定論的な世界では過去に自分がどう行動するかは完全に定まっていた以上「あのとき違った行動をする」なんてことは不可能だからである。

……などと御託を並べたが、感情的に後悔することがないわけではない。というかけっこうある。でも、たぶん人よりはしないほうではないかと思う。最終的には「でもしょうがないか」と言って納得するタイプである。だから、ネットではよく「黒歴史」という言葉が使われるが、私からするとそんなに軽々しく自分の過去を黒歴史扱いできるのはなんだかスゴイなあ、という感じがする。

 

💩

 

ところで私は、このブログにガンジー・ウンチ Vol.1を投稿したあと、記事URLに「ガンジー・ウンチ」という言葉を添えたツイートを投稿した。

私は今日なにげなく「from:pmjuji ガンジー ウンチ」で検索した。なお、@pmjujiは私のアカウントであり、from:pmjujiは@pmjujiから投稿されたツイートを検索するという意味である。「ガンジー」と「ウンチ」の間には半角スペースを入れてある。すると検索結果はどうなるか。

f:id:GungeeSpla:20211231034933p:plain

なんと、検索結果に先ほどのツイートが出てこない。なぜか? これはTwitterの検索が文字レベルではなく単語レベルで行われているからである。「ガンジー・ウンチ」はそれ全体でひとつの単語になっており、それより細かいレベルに分割されない。したがって、「ガンジー ウンチ」という検索ではサルベージできないのである。似たような例で言うと、「シェケナダム」が含まれるツイートを「ダム」という検索でサルベージすることはできない。

だから、先ほどのツイートを検索したいなら「ガンジー・ウンチ」で検索してやればよいのである……と私は思った。するとこうなった。

f:id:GungeeSpla:20211231035001p:plain

ガンジー・ウンチなら検索に引っかかると思ったのだが、どういうわけか引っかからなかった。そしてどう検索してもガンジー・ウンチを掘り出すことができない。私のガンジー・ウンチはTwitterの虚空に消えてしまったようである。

 

💩

 

さて、今回のテーマは「雑談力」である。

ところで私は、自分のことを「コミュ障」だと認識している。……このコミュ障という言葉は意味合いが非常に多岐にわたり、人の数だけ定義のある言葉の代表格である。コミュ障を自称する人たちにとってもっともしっくりくるコミュ障の定義はおそらく「自分みたいなやつのこと」ではないだろうか。私はそうである。だから私は、自分とは異なる属性を持つ人を「お前は陽キャ!俺とは違う!」と雑に陽キャカテゴリに放り込みがちな悪癖を持っている。たとえば「なんだあ、旅行が趣味だって?(私は特に旅行が趣味というわけではないので)旅行に行くやつは陽キャ!だからお前は陽キャ!」といった具合である。まっこと悪い癖である。

コミュ障という言葉のなにが複雑かというと、まず「しゃべれるコミュ障」とかいう概念があることである。しゃべれるコミュ障とは「めちゃくちゃしゃべれるんだけど、話が全然かみ合わなかったり、人の話を聞かずに一方的にまくしたてたりする」という感じの人であるらしい。私からすれば「しゃべれるんだったらコミュ障じゃないんじゃないの」と思わなくもないが、たぶん実際にそういう人に出会ったら私も「うわっ! これがしゃべれるコミュ障か!」となるのだと思う。

コミュニケーションにも種類がある。ひとつは、いわゆる報連相(ほうれんそう、報告・連絡・相談のこと)のような業務上必要になるコミュニケーション。これは私にもある程度できる。むかしはこれすら苦手だったのだが、生まれて初めてアルバイトをしたときに店長から「君はコミュニケーションが苦手なタイプだね」と面と向かって言われ、私はその言葉でかなりダメージを受けたので、直そうと思って訓練した。たとえば「わからないことを正直にわからないと言う」「業務上心配なことがあれば早めに言う」というだけのこと(できる人からすれば、なぜできないのかがさっぱりわからないだろう)がむかしに比べればずいぶんできるようになった。

 

💩

 

しかし、いま問題にしたいのはもうひとつのコミュニケーションのほうである。それは「雑談……人と楽しくおしゃべりすること。私をはじめとするコミュ障を自称する人たちが「できない」とするコミュニケーションはこの雑談のことだと思われる。

雑談ができないと嘆く人はまことに多い。「雑談 話題」とか「雑談 コツ」とか「会話 続かない」などでググれば、雑談上達のコツを伝授せんとするブログの記事がいくつもヒットする。記事のいたるところに広告が貼ってあり、記事が無駄に何ページかに分割されており、最後はお決まりの「いかがでしたか?」で締めるアレだ(それ自体はまったくかまわないのだが)。それだけ需要のある話と言えるだろう。

この「雑談」について、私が思うところを書き下そうと思う。これが今回の記事の主題である。非常に長い前置きとなったが、読者の何割が残っているだろうか。ここまで読んでくださっているあなたに深く御礼申し上げる。

さて、繰り返しになるが、私は自分のことをコミュ障だと思っている。言い換えれば、自分のことを雑談ができないタイプの人間だと思っている。だから言ってみれば、私が雑談について語るのは、ブタが木登りについて語るようなものである。あるいは、ニワトリが空を飛ぶことについて語るようなものかもしれない。しかしほかの鳥たちからすれば、空を飛べるなんて息をするのと変わらないくらい当たり前のことである。「なんでこいつは空を飛ぶごときでこんな長文書いてんだ……」と思われるかもしれない。それでもよければ読んでいってほしい。

私は、雑談ができない原因には2種類あると考えている。すなわち①能力的な問題と、②気持ちの問題である。雑談ができない人はたいてい両方の問題を抱えており、逆に雑談が得意な人は両方の問題をクリアしている。

 

💩

 

①能力的な問題というのは、「雑談の技術・経験・知識が不足しているために雑談ができない」ということである。たとえば、話題の見つけ方、質問のしかた、呼吸の置き方、話のつなぎ方、などなど。私をはじめとする雑談ができない人はたぶんこのあたりのテクニックが十分に身についていない。

しかしそれは、考えてみれば当たり前のことだ。雑談ができる人は、物心がついたときから現在の年齢に至るまでずうっと家族や友達、同僚と会話を重ねてきたわけである。10年や20年、あるいはそれ以上の年月をかけて経験値を稼いでレベルアップを繰り返してきたのだ。かたや雑談ができない人は「まあ小学生くらいまでは友達とおしゃべりすることもあったが、中学くらいからだんだん友達が少なくなってきて、いまとなっては最後に会話したのは三日前のスーパーの店員さん」とかいう状況だったりするわけである。これは自己紹介ですか? はい、そうです。

雑談ができる人とできない人では、積み重ねてきた経験値が違いすぎる。10倍、いや下手したら100倍くらいの差があるかもしれない。スプラトゥーンで言えばプレイ時間5000時間 vs. 50時間である。そりゃあ、技術に雲泥の差があって当然である。

技術的な問題についてはどうしようもない。5000時間プレイした人に追いつきたければ、自分も5000時間プレイするしかない。攻略記事を見るなどしてブーストを得ればそれより短い時間で済むかもしれないが、結局、地道にプレイ時間を重ねる以外に道はない。で、そんなことをこの記事で書いてもしょうがなかろう。

 

💩

 

ホントに書きたいのは、②気持ちの問題のほうである。雑談ができない人は、そもそも雑談するための気持ちが足りていないことが多いのではないかと思う。雑談するために必要な気持ちとはなにか。いきなり結論から入ってもいいのだが、読者をじらすために少しだけ後回しにしよう。

説明に入るまえに、雑談の要素を三つに分解してみよう。雑談とはだいたい次の三つの要素で成り立っている。

・相手の話を聞く
・自分の話をする
・話題を見つける

したがって、雑談ができない人はこのうちどれか(あるいはすべて)に問題があることになる。

 

💩

 

相手の話を聞く」ために必要な気持ちとはなんだろうか。思うにそれは、「相手と仲良くなりたい」という気持ちである。もし目の前の相手に興味を持ち、その相手と仲良くなりたいと思ったのなら、自然と「もっとこの人のことを知りたい」という欲求が芽生えるはずだ。(いや、断定するのは危険なので「芽生えることが多いだろう」くらいにしておくべきか。もしあなたがこの先の文章で「いやそうとは限らないよね」という断定表現を見かけたら、各々で推量の助動詞を付け足して読んでほしい)

たぶんどれだけ雑談が得意な人でも、いま目の前にいる相手がホントにどうでもいい人物で、なんなら少し嫌いで、そしてこの人に悪く思われても自分の人生にはなんら影響がないと判断したら、きっとそんなに会話は弾まないのではないかと思うのだ。かりにそのどうでもいい相手が「実は私、チクワが好きなんです」と言ったとしよう。私だったら「あ、そッスか」としか思わないに違いない。

ところがだ。どうでもいい相手ではなくて、いま自分がチョット気になっている相手が「実は私、チクワが好きなんです」と言ったとしたらどうか。たぶん、どれだけ「私雑談できません」という人でも、ひとつふたつは質問が浮かんでくるだろう。「この人とチクワの関係についてもっと知りたい」と思うだろう。たとえば、次のように。

「チクワのどんなところが好きなんですか?」「食べ物のなかでチクワが一番好きなんですか?」「好きなチクワ料理とか好きなチクワの食べ方ってあります?」「生でかじったりします?」「好きになったきっかけとかあるんですか?」「ふだんどれくらい食べるんですか?」「チクワはタンパク質が多いって言いますよね。なにか筋トレでも?」「僕もチクワ好きです!かわいいですよね、目がくりくりしてて」「チクワ、実家でよく出てきたんですか?」「家族もチクワ好きだったりします?」「なんか母親ってなんにでもチクワいれませんか?」「好きなチクワのメーカーってあります?」「やっぱり値段で味変わりますか?」「どこのチクワが一番おいしいですか?」「うちの地元にビタミンちくわっていう商品があるんですけど知ってます?」「わたくしチクワなんて食べたことありませんわ。いったいどんな味がするんですの?」「チクワ以外の練り物も好きですか?」「ほかの練り物とチクワはどこがそんなに違うんですか?」「魚肉製品全般好きですか?」「チクワって両端が白いのに真ん中が茶色になってるのかわいくないですか?」「というかチクワっていう言葉の響きがもうかわいくないですか?」「チクワとチクビってなんか似てますよね……」「チクワに関するうれしかったエピソードとかあります?」「逆に悲しかったエピソードとかは?」「いままで食べたなかで一番おいしかったチクワって覚えてます?」「お歳暮にチクワもらったらうれしいですか?」「チクワの穴ってなんのためにあると思いますか?」「チクワの穴に入れたらおいしそうなものってなにがありますか?」「ひょっとしてあなたチクワですね?」「実は僕チクワなんです。好きですか?」

などなど、いろんな質問が考えられる。私はかなり時間をかけてこの文章をひねり出したが、雑談慣れしている人ならものの数秒でもっと面白い質問をしてくれることだろう。

相手に興味があれば、自然と相手のことを知りたいと思う。そして、相手について知らないことがあればそれを質問してみる。相手から返答が来る。するとそれが会話になる。じゃあ、それで相手のことを100%知ることができたのか? そんなはずはあるまい。じゃあ、また質問しよう。と、こうすれば、相手に知らない部分がある限り無限に会話が続くということになる。

もちろん、こんなのは机上の空論である。だいたい、一問一答で質問をぶつけて答えてもらうのは雑談というよりインタビューだ。雑談がうまい人はこう、もっと滑らかに話と話を接続して、いつの間にやら面白トークに発展させてくるのである。私からすれば神ワザだ。しかしそれはセンスまたは経験の成せるワザであって、雑談ができない人間にはとうてい難しい。また、質問をするさいにどこまで踏み込んでよいかというのも難しい問題である。

ただ私が強調したいのは、「相手に興味があれば自然と相手のことを知りたくなっていろいろと聞きたくなるよね。だから、まずは相手に興味を持とう」ということである。人間という生き物にとって、他者に理解・共感・承認してもらうことに勝る喜びはそうそうない。逆に相手のことを知ることもまたうれしく楽しいことである。その喜びをこの上なく得られるのが会話であり雑談なのだ。

なんて偉そうなことを言いながら、私などはそもそも人間に対する興味が不足しているので、相手に興味を持とうと言ってもなかなか難しかったりする。まあ、興味のない相手と雑談が弾まなくてもべつにそんなに苦痛ではないよね、などと投げ出したくなる気持ちもある。

 

💩

 

ここまでは「相手の話を聞く」ことについて書いてきた。では「自分の話をする」のに必要な気持ちはなんだろうか。まず、「相手と仲良くなりたい」という気持ちを持つのが重要なのは先ほどと同様である。相手と仲良くなりたいと思ったとき、「相手のことを知りたい」と思うと同時に「自分のことを知ってほしい」という気持ちも生じることがあると思う。もしそう思ったなら、それに素直にしたがって自分のことをなんでも話せばよい。しかし、ここでとある問題が生じてくる。

ところで一か月ほど前のことだったと思うが、私は自分のウンチに対して感動した。どう感動したかをここに具体的に書くといよいよ汚すぎて本格的に読者に引かれてしまうので言及を差し控えるが、とにかく感動したのである。しかし、その内容は書きがたい……この「ふええ、ウンチの話なんてできないよう」という状況は、ようするに「ウンチの話ができるほど相手に心を開いていない」ということである。

そう、「自分の話をする」うえでもうひとつ重要なのは「相手に心を開く」ことだ。相手に心を開いていない場合、「この話はしてもいいのだろうか?」「この話はしたくない……」というふうに、なにを話すか考えるたびにいちいちセキュリティチェックが挟まる。心のなかのアバスト先生がメモリとCPUを食い散らかす。こんな状態では満足に自分の話などできるわけがない。かろうじて話題を選んで自分の話ができたとしても、「こいつそんなに心を開いてないな」というのは相手に伝わるものである。すると、相手がこちらに対して繰り出せる質問にも制限がかかってしまう。「これはあんまり聞かれたくないのかな」と相手に察させてしまう。

しかし相手に心を開くことで、自分の話をするのが苦じゃなくなり、自分のことを流暢に話せるようになる。相手にも「こいつ、心を開いてやがる……!」というのが伝わる。そうすると相手も自分の話がしやすくなるし、こちらへの質問もしやすくなる。雑談をするうえで心を開くというのは大変重要なのである。

おそらく「お酒を飲むと話が弾む」ことの理由はここにある。ちなみに私はお酒がほとんど飲めず、飲んだところで気持ちいい時間なるものはあまりに短くて、やがて吐き気やめまいなどの体調不良を起こす。だからこれは推測になるのだが、人間というのはお酒を飲むと心のセキュリティが甘くなる。すなわち、心を開いた状態に近くなる。「こんな話してもいいのかな」というセキュリティチェックがおこなわれなくなり、そのためいつもより話がしやすくなる。お酒は記憶にも影響があるとのことなので、建前上「ここで話したことは忘れてもらえる」ということになり、なおさら踏み込んだ話もしやすいのだろう。逆に言えば、ふだんから心を開いて頭のねじを多少緩めておけば、お酒などなくても弾む雑談は可能なのである。

 

💩

 

「相手の話を聞く」「自分の話をする」、残るひとつは「話題を見つける」だ。会話の順番的にはこれを最初に持ってくるほうが自然だが、私が書きたい内容の順番を優先して最後に回した。正直これについては、「相手に興味を持ち」「心を開く」ことができていればそんなに問題にならないのではないか、と素朴に思っている。無理に話題を見つけなくても、素直に気になることを聞き、話したいことを話せばよいのではと思う。

とはいえ、それがうまくいかないからコミュ障を名乗っているわけであって、実際にはなかなか難しい。これは経験を積むしかない。このあたりについては既存のアフィブログの記事がけっこう詳しくて、「雑談 話題」とか「雑談 質問」とかでググれば記事がいくつもヒットする。そういうのを読めば、話題の自然な見つけ方やつなぎ方のコツがわかってくるのではないかと思う。ちなみに私は全然わからない。

相手のことを全部知るとか、自分のことを全部知ってもらうとかいうのは大変なことである。まず量が膨大だ。どれだけ雑談を重ねれば全部終わるのか知れたものではない。また、全部を話そうとするうちに「相手に嫌われうる部分」にぶち当たる。「こんなことを話したら関係が壊れるのではないか」と恐れて話せないかもしれない。しかしそのような壁を乗り越えて、話せることは全部話して、いよいよ話すことがなくなったらどうしよう? 相手のことは知り尽くしたし、自分のことは知られ尽くした。もう話題がない。……もしそれくらいに雑談を重ねたなら、もうお互いに会話などなくても居心地のよい関係になっていることだろうと思う。

 

💩

 

雑談からは話が逸れるのだが、コミュニケーションに関連した話として「察する」という文化に少し触れて記事を終わりにしよう。この「察する」という文化は非常にクセモノである。ある人は「文章に書いてあることしか読み取れない人、マジで疲れるわ。もっと察する努力をしろよ」と言い、ある人は「文章に書いてないことを読み取ろうとするのは勘弁してくれ。そんなこと俺は言ってない」と言う。ちなみに、どちらのタイプの人間も私のTLで見たことがある。察しろ vs. 察するな、で完全に正反対の主張をしている人たちが共存しているというのはなんだか不思議である。

私はどちらかというと「察するな」陣営に属する。「察する」はコストがかかるうえに、確実性に欠ける。そんなものをあてにするくらいなら、最初から察さなくていいようにすべてを言葉にしたほうがお互い楽だと私は思う。

「察する」文化によって全員が不幸になりうることを示した寓話としてアビリーンのパラドックスというのがある。寓話の内容を多少改変しつつざっくり説明するとこんな感じだ。ある家族がいて、父が「アビリーン(地名)にでも行くか?」と提案する。母と娘は「いいわね、行きましょう」と言って家族全員でアビリーンに出かける。しかしいざ行ってみると、全然楽しくなかった。うだるような暑さで不愉快なだけだった。帰ってみると母も娘も「ホントはべつに行きたくなかった。他の人は行きたいのかと思って賛成しただけ」と言う。そして最初に提案した父すらこう言うのだ。「別に俺だって行きたくなかったけど、お前たちが行きたいかと思って……

「自分はAがいいと思うけど、みんなはBがいいと思ってるんだろうな」と全員が察することによって、結局だれにも望まれていないBが採択されてしまう。これは「察する」という文化が悪い方向にかみ合ってしまった場合に生じる不幸である。ちゃんと言葉にして確認すれば、このような不幸は回避できるのである。自分の気持ちは言葉にしよう!

以上、ガンジー・ウンチ Vol.2をお届けしました。