月刊ガンジー5月号

主にアンレールドとサーモンランについて書く思考録。

ガンジー・ウンチ Vol.1

この記事はウンチである。

気まぐれに文章を書きたくなったので、暇つぶしをかねて雑記を書き連ねることにする。なにか議論をしたくて書いているわけではなく、なにかに対する反論や批判という意図もまったくない。私にとって文章を書くことはそれ自体が楽しいことで、趣味や遊びに近い。論文やレポートとして書いているのではないので、この記事では脱線に脱線を重ねていく。「さて」「ところで」「ちなみに」「話は変わるが」といった脱線に関わる接続詞を頻繁に用いることになるだろう。

この記事は、ファルコンを名乗る人物が「ファルコン・ランチ」と言いながら投稿するランチの写真に似ている。私はファルコンを名乗る人物ではなくガンジーを名乗る人物で、そしてどちらかといえば、この記事はランチというよりウンチである。したがって、この記事にはガンジー・ウンチというタイトルがふさわしいだろう。

なぜこの記事がウンチだと言えるのだろうか。ウンチというのは、人間がものを食べた末に排泄する老廃物である。一方でこの記事も、私がものを考えた末に排泄した老廃物である。この観点から、この記事はウンチと言わざるをえない。

しかし、これだけではこの記事がウンチであると言うには不十分である。なぜなら、「なぜランチではなくウンチなのか」が説明されていないからだ。同じようなこじつけによって「この記事はランチである」と言い張ることだってできるかもしれない。たとえば適当に、「ランチは栄養を接種するために人間が食べるものだ。そして私は、他者の考えという栄養を摂取してもらうためにこの記事を書いた。そう、ランチと同じような気軽さと楽しさで読んでもらえるように。だから、この記事はランチである」という言い分を考えることができる。

しかしそれでも、この記事はランチではなくウンチなのである。第一に、ランチというときれいなイメージがあるが、この記事はランチというほどきれいではない。「いや、汚いランチだってあるぜ。ほいよこれ、具沢山・アチアチ・鍋焼きうどんね」と言いたくなる人もいるだろう。しかし「それってウンチより汚いんですか?」と問えば、「いや、ウンチよりは汚くないけど…」と答えざるをえないだろう。ウンチのほうが汚い。私の記事も汚い。はいウンチ、というわけである。

第二に、ランチは人体への入力(インプット)だが、ウンチは人体からの出力(アウトプット)である。そしてこの記事はもちろん、私のアウトプットに他ならない。この点からも、ウンチに軍配が上がるだろう。(ここまで書いて、ランチも料理人からすればアウトプットだろうと気が付いてしまった。このような文章から、私が料理を全然しない人間であることがバレてしまう)

以上が、この記事がランチではなくウンチであるとする理由である。いまおこなったように、Aであると主張したいとき、「なぜAなのか」を述べるだけでなく「なぜA以外のものではないのか」を述べることも重要である。論証として必要というだけでなく、これを書けば単純計算で文章量が倍になるため、レポートの字数を稼ぎたい学生にとっては大変重宝するテクニックとなる。

しかし、まだ考えておくべき点がある。「そもそもなんでランチとウンチの2択なんだよ」という点である。もとはといえばファルコン・ランチの話だったのに、唐突にウンチが飛び出してきた。このウンチはいったいどこから来たのか。たぶん私の尻からである。というか、ファルコン・ランチすら唐突に出てきたもので、そもそもの元ネタはファルコン・パンチだし、そのファルコン・パンチすらスマブラで唐突に生み出されたオリジナル技である。

このように、本当は無限の可能性があるはずなのに「ランチかウンチか」というふうに意図的に限定した選択肢を突きつけることを誤前提暗示という。これは人心操作のテクニックのひとつで、かのアドルフ・ヒトラーも使っていたらしい。

この記事はランチなのかウンチなのか、はたまたパンチなのかトンチなのか。そろそろどうでもいいと思われているころだと思うので、ここで話を切り上げよう。

ところで、「この記事はウンチみたいだ」「この記事はウンチっぽい」「この記事はウンチのようなものだ」というふうに比喩であることが明白な比喩表現を直喩(ちょくゆ)または明喩(めいゆ)という。それに対して「この記事はウンチである」というふうに一見比喩ではないかのような形をした比喩表現を隠喩(いんゆ)または暗喩(あんゆ)という。メタファーとも呼ばれる。直喩と隠喩はちょっと混同しやすい(「ウンチである」のほうが直接的なので、直喩という感じがしてしまう)ので注意されたい。

隠喩には、直喩にはないパワーがある。読者の方々にもぜひ隠喩のパワーを感じてほしい。「この記事はウンチのようなものだ」と言われたら「へぇ~そうなんだ」というくらいだが、「この記事はウンチである」と言われれば「えっ、そうなのか!?」となるだろう。

ならない? すみません…

ちなみに、このように自己ツッコミを入れたうえでそれを強調するのは2000年代個人ブログしぐさという感じがしてちょっと気恥ずかしい。

さて、先だって「議論をしたくて書いているのではない」と書いた。これに関して付け加えておくと、そもそも私は議論がかなり苦手である。苦手には「嫌」という意味と「不得手」という意味があるが、そのどちらの意味においても苦手である。不得手のほうは単に私の能力的な問題なのでさておいて、なぜ嫌なのかという話をすると、私は「議論(とりわけ質問、批判、反論、不備の指摘など)」と「攻撃」を切り離して考えることができず、そして多くの人がそうであるように私は攻撃されるのが嫌だからである。

議論の指南書には必ずといっていいほどこう書いてある。「質問や批判はべつにあなたに対する攻撃ではありませんよ」と。「たとえば教員や指導員が学生のレポートに質問をぶつけるのは、べつに学生をいじめたいからではなく、ただ学生の思考過程をチェックし、さらにはレポートをより良いものに昇華させたいからですよ」と。

実のところ私は、サディスティックな欲求を学生に対する指導で満たしている教員はけっこういるのではないかと疑っているのだが、まあ、それはいったんおいておこう。「質問や批判はべつにあなたに対する攻撃を意図しておこなわれているのではない」が事実であるとしよう。しかしそう説かれても私は、かりになにかの発表をして誰かから質問や反論をぶつけられれば、それを感情的に「自分への攻撃」だと受け取らずにはいられない。これは本能に近い。「質問を攻撃と受け取らないようにするの、無理では?」と思う。

私は「自分が質問を攻撃と受け取るタイプかどうか」について自分が特別(=少数派)であると言える根拠が思い浮かばないので、たぶん私は多数派に属している可能性が高いだろう。つまり、私のようなタイプ(質問をどうしても攻撃ととらえてしまうタイプ)が多数派ではないかと思う。赤玉と白玉が合わせて100個入っていることだけがわかっている袋から無作為に1個の玉を取り出して赤玉が出たときに「たぶん赤玉のほうがたくさん入っていたんだろう」と結論するのと同じである。多くの人間が質問を攻撃ととらえてしまうからこそ、「質問は攻撃ではない」という啓発が盛んにおこなわれるのだろう。

質問と攻撃を切り離して考えることができる人は「議論センスがある人」ということになるだろうか。最初から議論センスがある人もいるだろうし、訓練によってあとから議論センスを身に着けることも可能だろう。たとえば大学でディベートを活発におこなうゼミに参加して1年みっちり訓練すれば、おそらくかなりの議論センスを身に着けることができる。しかし私は、そのような訓練を積んでこなかった。最初から議論センスを持っているクチでもない。そのため、議論センスが未熟である。

ちなみに、議論と攻撃性に関する話題として概念メタファーというものがある。これは「ある概念を通して別の概念の構造を理解すること」といった意味合いで、代表的な概念メタファーのひとつに「ARGUMENT IS WAR議論は戦争である)」がある。「これこれこういう感じで、戦争に関する用語で議論の構造を記述することができる。人々はそれを自然に受け入れられるだろう。だから人々は戦争という概念を通して議論という概念をとらえているんだよ!」みたいな話だったと記憶している。ちなみに私は全然詳しくないので、興味がある方は調べてみてほしい。レイコフやジョンソンなどの学者の名前が出てくるはずである。

というわけで、私は議論が苦手なので、批判したりされたりすることも苦手である。そして、自分の発言が批判の材料として引用されることも苦手である。だから、なるべく自分の文章から攻撃性をそぎ落としたいと思っている。にもかかわらず私の文章から攻撃性が感じられれば、それは私の落ち度であり、申し訳なく思う。ただし内容に明確な誤りがあれば直したいという気持ちも併せ持っているので、間違いの指摘は歓迎する。以上を前置きしたうえでサーモンランに関する話題に移ってみよう。

さて、Twitterにおいて「野良に迷惑をかけてはいけない」という主張がある。「野良」というのは、見知らぬ人々とのマッチング(野良マッチング、これ自体を野良と呼ぶこともある)によって引き合わされた味方のことである。野良と呼び捨てることに拒否感を覚え、「野良さん」「野良ちゃん」などと敬称をつけて呼ぶ者もいる。

実は私は「野良に迷惑をかけてはいけない」という主張にそれほど賛同しない。かつてSalmon Run Recordsから野良に関する一部の記録を削除したときにコミュニティの健全性が云々という話を記事にしたことがあるが、あれは記録の管理者という立場からの声明であって、私個人の考えとはまったく違う。端的に言って、私は野良に多少の迷惑をかけてもかまわないと思っている。

話は変わるが、私はタバコ容認派である。私は自分でタバコを吸ったことはないし、副流煙を吸う限りではタバコがうまいものとはまったく思えないが、他人に目の前でタバコを吸われてもかまわない。「かまわない」というのは「迷惑と感じない」という意味ではなく、「まあ迷惑なんだけど、それくらいなら許す」という意味である。なぜこう考えるのかというと、私にとっては「迷惑をかけてはいけない社会」より「迷惑を許容しあう社会」のほうが楽だからである。

「タバコという迷惑を許容しない」人は、当然「自分もタバコレベルの迷惑を一切かけてはいけない」ことになる。それが筋を通すということだろう。私はタバコを吸わないが、他人にタバコレベルのなにがしかの迷惑もかけていないという自信はないし、「いま自分はタバコレベルの迷惑をかけていないだろうか」といちいち心配するより最初からタバコを許したほうが楽である。そもそも私は自分のことを生きているだけでタバコより迷惑な存在だと思っているので、タバコが許されない社会では私は生きることすら許されないことになってしまう。エラいことである。

もちろん「迷惑をかけてはいけない」派の人でも許せる迷惑はあるだろうし、逆に「迷惑を許容しあおう」派の人でも許せない迷惑はあるだろう。たとえば、人殺しも許しましょうというのでは社会が成り立たない。だから、結局は相対的な区分ということになる。

ともあれ、私はどちらかといえば迷惑許容派なので、「野良に迷惑をかけてはいけない」という主張を見たときに「そうだ、その通りだ!よくいった!」という気持ちにはならない。しかし、べつに取り立てて否定しようという感情も湧かない。何度も言ったように私は議論が苦手だし、人にはそれぞれ違う考えがあるし、ましてや迷惑否定派と許容派の違いは程度問題に過ぎないからである。

ただし、この主張にはちょっと危険な部分があるのではないかと思う。

主張P「野良に迷惑をかけるな」

この主張Pは、次の主張Qと非常に親和性が高い。

主張Q「ザコは潜るな」(下手なプレイヤーは野良マッチングに参加するな)

実際、「私はザコである」「ザコが野良マッチングに参加すると味方に迷惑がかかる」「味方に迷惑をかけてはいけない」したがって「私は野良マッチングに参加してはいけない」と考える人はいくらでも存在する。もしかすると、ゲーマーという集団に限ってはそれが多数派ですらあるかもしれない。

べつに私は下手な人でも野良マッチングに参加してよいと思う。下手な人がゲームに参加することは、(ゲーム内で提示される目標の達成確率が下がることを迷惑とするならば)たぶん迷惑なのだが、私はべつに迷惑をかけてもよいと思うからである。

もちろん、Pを主張してもQを主張しない人はいる。Qを主張しないPというのは、次のような主張R-1、R-2になるだろう。

主張R-1「野良に迷惑をかけるな。でも、下手なことで迷惑をかけるのはしかたないよ」
主張R-2「野良に迷惑をかけるな。でも、下手なことは迷惑にならないよ」

R-1とR-2は似ているようでかなり違う。R-2は「下手であることはべつに迷惑ではない」とばっさり切り捨てているが、R-1は「迷惑である」とはっきり認めている。R-1はさらに次のような主張Sに発展するかもしれない。

主張S「下手なうちに迷惑をかけるのはしかたない。でも、いつまでもそれに甘んじたらダメだよ。迷惑をかけないようにするためにうまくなろう、そしてうまくなるために努力するのは当然だよね」(努力の強制)

たとえば「野良やるなら間欠泉の開け方くらい調べてこいや」という主張はこの一例だろう。しかし私はどうも、この手の主張になじむことができない。(それが間違っているとは決して思わないのだが)

なんというか、主張Rは「Qを恣意的に除外したP」なのだが、このような主張にはどうしても不徹底さを感じる。矛盾しているというほどではないが、うっすらとした一貫性のなさ、不徹底さ、逆差別的な感じを受けてしまう。ここでよくよく注意されたいのだが、私はべつに、一貫性のないことが悪である、不徹底なことは悪いことだ、逆差別は最低だ、などと述べるつもりはない。事実認識と価値判断は違うものである。

ただ個人的な趣味として、私は一貫性のあるものや徹底されたものに対して惹かれてしまう気持ちが非常に強い。これはたぶん、河原できらきらした小石を見つけた少年の気持ちに似ている。どれだけ荒唐無稽な主張(たとえば「キスケはポケモンである」「ニワトリはトリではない」「人殺しをしてもいい」)であっても、その人のほかの主張やふだんの言動との間に一貫性があれば、「この人には一貫性がある」「徹底しているな」となって感心してしまう。

その観点から言うと、主張の善悪はさておいて、「野良に迷惑をかけるな」に加えて「ザコは潜るな」まで主張する人には確かな一貫性を感じる。個人的な趣味からいえば好きである。

一方で「野良に迷惑をかけるな」けど「下手なことはべつにいいよ」という主張は、とても立派ですばらしい考え方だとは思いつつも(これは本当にそう思う)、上の主張に比べると一貫性が一段下がった主張になっており、個人的な趣味の見地からはランクが下がる、という感じになる。

というのを、TLを見ていて考えました。あとがきもなくぶつ切りになってしまいますが、以上、ガンジー・ウンチをお届けしました。