月刊ガンジー5月号

主にアンレールドとサーモンランについて書く思考録。

ガンジー・ウンチ Vol.5 『誕生日』

私は自分の誕生日を祝われるのが基本的に好きではない。理由は主にふたつある。ひとつは「応答義務が発生するのが嫌だから」、もうひとつは「(誕生日を祝うという風習が)陽キャっぽいから」である。以下で詳しく述べよう。

まず「応答義務が発生するのが嫌だから」について述べよう。ここでいったん、話題を「誕生日のお祝い」から「Twitterのリプライ」に変えてみる。実は私はTwitterでリプライが来ることをあまり好まない。それは誕生日の話に通じるところがある。

私はTwitterで「リプしてんだからリプ返すかせめていいね付けろよ」という意見を目にしたことがある。たぶんその意見を述べた人は、自分がリプライを送った相手からリプライもいいねも返ってこなかったものだから、無視されたと思って腹を立てたのだろう。私はそれを見てぞっとした。望んだわけでもないのに勝手にリプライを送り付けられ、それによっていつの間にか自分に応答義務が課せられる可能性を認識したからである。その「いつの間にか発生している応答義務」に応じなければ相手に腹を立てられ、自分に「社会性がない」「まともな社会的応答・受け答えのできない人だ」という烙印が押されるかもしれない。なんと怖いことだろう。

そもそも私は、だる絡みをあまり好まない。ここでいうだる絡みとは、有益な情報提供や不備の指摘、あるいは募集ツイートへの参加希望などを含まない日常のやりとりすべてを指す。「おはよう」というツイートに「おはよう」とリプライを付けるのもだる絡みに含める。だる絡みをされてもそこまで気にならない相手というのも何人かいるが、その数は片手で数えられるほどだ。「だる絡みされても気にならないかどうか」は「応答しなくてもよさそうか」に還元され、「応答しなくてもよさそうか」は「その人に対する好意+その人の軽さ」に還元されるのではないかと思っている。「軽さ」という要素は意外と大きくて、「軽い」人にはだる絡みされてもそれほど気にならない。

正直なところ、だる絡みを防ぐために、私は日常的なツイートすべてにリプライ制限をかけたいくらいの気持ちである。実際にそうしない理由は、私がメインで使っているTwitterアプリのTweetDeckがリプライ制限機能に対応していないから、というのが大きい。ただし、だる絡みされそうな予感がしたときに限り、わざわざ公式Twitterを開いて個別にリプライ制限をかけることがある。

誕生日に話を戻そう。誕生日についても、まったく同じことが言える。一度誕生日を公開したが最後、私はいつ誰に誕生日を祝われるのかわからないという恐怖におびえながら生活することになってしまう。祝われたが最後、それに対して「(お祝いいただき)ありがとうございます!」とリプライを返したり、最低でもいいねを押したりするという応答義務がいつの間にか私のタスクリストに追加されてしまう。しかもである。「ありがとうございます!」とだけ返していればコピペ感はぬぐえず、内心「せっかく祝ってやってるんだからもっと考えて返信しろ」と思われる恐れもある。なんて恐ろしい!

さて、人間社会において「返報」という概念は非常に重要である。返報は「誰かに良いことをしてもらったら良いことをし返す(報恩)」と「誰かに悪いことをされたら悪いことをし返す(報復)」のふたつを合わせた概念であり、これがなければ人とのコミュニケーションやその集合体である人間社会は成り立たない。せっかく人に良いことをしてあげたのにいつまでもその恩が返ってこない社会では次第に誰も良いことをしなくなってしまうし、悪いことをしたのに誰からも制裁を受けない社会では悪人がのさばる一方である。しかし「返報」が機能している社会であれば、人々は積極的に良いことをし、悪いことを控えるようになるだろう。だから絵本や昔話には「返報」の大事さを説くものが多い。インターネットの人間はすぐ自虐的に「社会不適合者」「社会性欠如」などを自称するが、「返報」はまさに人間の社会性の一面である。「返報」は人間社会の構成員に課された義務なのである。

そして、誰かに誕生日を祝われたときに相手の誕生日を祝い返すのも「返報」の一例である。人から良いことをされておきながらなにも返さないようでは、「返報という正常な社会的応答もできない恩知らず」と見なされる恐れがある。つまり、誰かにTwitterで「誕生日おめでとうございます!」と言われた瞬間、それに対してリプライやいいねで反応する義務が発生するどころか、相手の誕生日を祝い返す義務まで発生してしまうのである!

以上が、私が自分の誕生日を祝われるのが好きではない理由のひとつ「応答義務が発生するのが嫌だから」である。さて、もうひとつの「陽キャっぽいから」について述べよう。

そもそも、なぜ誕生日はめでたいのだろうか。誕生日とは、グレゴリオ暦において生まれたときと同じ月日を再び迎えて年齢がひとつ増えるだけのイベントに過ぎない。飢えや寒さをしのぐだけで大変だった時代ならまだしも、現代の日本社会では、少なくとも生きるだけなら昔ほど困難ではない。誕生日は、なにかで1位にならずとも、なんの努力もしていない自堕落な人間でもただ時間が過ぎれば迎える程度のものでしかない。

たぶん、この「時間が過ぎれば誰でも迎える」という点がポイントなのだ。たとえば「お金」「才能」「容姿」などは人類に平等にいきわたっているなどとは間違っても言えないが、「時間」は極めて平等であると言える。光速に近い速度で動いているのでもなければ、人間が1日に使える時間は等しく24時間である。時間は平等。そして1年に1回だけ訪れる誕生日もまた平等なイベントである。(※閏年は除く)

話は変わるが、渋谷のハロウィンの様子を見てあなたはどう思うだろうか。「あいつら全員ハロウィンなんてどうでもよくて、ただバカ騒ぎしたいだけさ」なんて思ったことがないだろうか。あるいは、サッカーのW杯で盛り上がる渋谷のスクランブル交差点の様子はどうだろう。「あいつらは真のサッカーファンというわけではなくて、サッカーをネタに騒ぎたいだけだ」とは思わないだろうか。自分ではそう思わなくても、人のそういう意見を聞いたことくらいはあるかもしれない。

私は渋谷のスクランブル交差点で人々がハロウィンやサッカーで盛り上がるのは大いに結構だと思う。結構だと思うが、やはりハロウィンやサッカーを「騒ぐ口実」として利用している感は否めない。元来、多くの人は「話したい」「騒ぎたい」「盛り上がりたい」という欲求を漠然と抱えている。「飲み会」という「脳を麻痺させる薬物を全員で摂取しながらどんちき騒ぎをする」風習が根強く残っていることはその傍証のひとつになるだろう。人はいつでも「騒ぐ口実」を求めているのである。

「誕生日」こそはまさにその「騒ぐ口実」にぴったりなのだ。なぜめでたいかなんてどうでもよい。渋谷で騒ぐ人だって、ハロウィンのルーツなど気にしていないだろう。「騒ぐ口実」が欲しい人々にとって、毎年人の数だけ平等に「騒ぐ口実」を提供してくれる「誕生日」は素晴らしいシステムなのである。

この「騒ぐ口実」を見つけて「騒ぎたがる」という振る舞いを、私は非常に「陽キャっぽい」と捉えている。そして私自身は自分のことを陰キャだと思っており、なぜか陰キャであることでマウントすら取り始める、どうしようもない始末である。そんな私にとって、誕生日を祝われて騒ぐ、喜ぶなどといったことは、私が陰キャの座から一歩遠ざってしまうような気がして……ちょっと気が引ける。

そんなわけで、私はネットで一般に向けて誕生日を公開していない。

※ちなみに、これを読んだ人の一部は次のように思われるかもしれない。「お前が書かなかった第三の理由を言い当ててやろうか。ようは、誕生日を公開して(つまり、誰かに祝われることを期待して)誰からも祝われないのが怖いだけなんだろ」と。

これはどうだろうか。自分ではわからないが、たしかにそれも理由の側面のひとつではあるのかもしれない。しかし、その側面の面積はあまり大きくないと思っている。日々驕らないように気を付けているが、少なくともガンジー人格では、何人かから誕生日を祝われうる程度の人付き合いを一応してきたつもりである。だからこそ私は、祝われることによる応答義務の発生を恐れている。