「とはなんだろうか?」とはなんだろうか? - ゲームがうまいとはなんだろうか?
(この記事は「1年以上前に書いていたけど途中でめんどくさくなってお蔵入りにしていた下書き」をわずかに加筆して公開したものです)
タイトルは誤植ではない。この記事は私が「
ちなみに全然関係ないのだが、私は今年の1月くらいから飲茶(やむちゃ)という方の書いた本やWebサイトのコラム(『哲学的な何か、あと科学とか』)を好んで読んでおり、その人の影響で自分の文体が変わってきたのを感じている。飲茶氏は非常に砕けた平易な文体で文章を書く人で、それでいて内容はとても深く知的で哲学的なので、私はすっかりこの人の文章が好きになってしまった。
実を言うと、私は飲茶氏の文章に対して、最初は「砕けすぎでは?」「読点多すぎでは?」「太字多すぎでは?」という感じで、若干くどい印象を持っていた。しかし人間というのは慣れるもので、いまではほとんど気にならない。むしろ、過去の自分の文章を見ると「あっさりしすぎている」と感じるようにすらなってしまった。
オリジナリティを出すためにめちゃくちゃ特徴的な喋り方をしているYouTuberを見て、最初は「なんだこいつ」と思うんだけれども、いつの間にかすっかりハマっている
あるいは、生まれて初めて炭酸飲料を飲んだときはのどが焼けるような感覚に「なんだこれ、ヤベェ」と思ったはずなのに、いつの間にかむしろお茶や水だと物足りないように感じるようになってしまった
というわけで、たぶん以前までの私の文章とは雰囲気が違うのを感じ、そして私が最初飲茶氏の文章に対してそう感じたように、あなたも私の文章をくどいと感じているかもしれない。
さて、そろそろ本題に入ろう。
「○○ とはなんだろうか?」に漂う哲学的な雰囲気
あなたは「
しかしここで、「
「
そもそも「
でも我々は、「人間」がなんなのかはよく知っているはずである。どんなに勉強がキライだった人でも、現在地球上に実在する生物の鮮明な写真をランダムで見せられて「これは人間ですか?」とクイズを出されれば、ほとんど100%の確率で正解を出すことができるだろう。カマキリを見て「これは人間かなあ」と悩む人はいないし、ゴリラやチンパンジーに対してすら即座に「これは人間じゃない」と判断できるはずだ。なぜそんなことが可能なのか? それはもちろん、我々が「人間」がなんなのかを知っているからである。
つまり、我々は「人間」がなんなのかを知っている。でも、「
(なお、このあたりの私の文章にはごまかしがある。私はここで意図的に「識別できる」と「知っている」と「わかる」を混同している。かなりイカサマな詭弁である。)
ようするに、
「ウ~ン、
「いや、
ということである。
「○○ とはなんだろうか?」に対する答え方
「
経験的説明は「
それに対して、還元的説明とは「ボクたちが
経験的説明と還元的説明にはいろんな例が考えられるだろう。たとえば、
「水とはなんだろうか?」
「透明で、チャポチャポしてて、飲むとのどの渇きが癒されて、ときどき空から降ってきたり、地面から湧いてきたり、海を形成したりしてるアレのことさ」(経験的説明)
「化学式H2Oで表される、酸素原子1個と水素原子2個がくっついたモノのことさ」(還元的説明)
とか、
「重力とはなんだろうか?」
「ボクたちやリンゴを地中に引っ張ろうとするチカラのことさ」(経験的説明)
「トランポリンの布の中央に鉄球を置いたら布が歪んで布の上にあるモノが鉄球に引き寄せられるのと同じように、質量のある物体が引き起こす時空の歪みに周囲のモノが引き寄せられる法則こそが重力なのさ」(還元的説明)
とか。
なお、上記の科学的な説明についてはホントに正しい説明ができているか自信がないので、注意されたい。
ゲームの話題
ここで、話をゲームに移そう。きっとみんなもゲームの話のほうが興味があるだろう。ゲームに関して「
「ゲームのうまさとはなんだろうか?」
「立ち回りとはなんだろうか?」
「才能とはなんだろうか?」
この問いに対する答え方にも、経験的説明と還元的説明があると思われる。これについて考えてみたい。
(ただし、先ほどまで例に挙げていた「炎」「水」のように明確な物質や現象を指すコトバとは異なり、ここでは「ゲームのうまさ」「才能」といった、そもそもなにを指しているのかが曖昧なコトバが対象になっている。この違いは大きい。「これは炎ですか?」と「これは才能ですか?」では後者のほうが圧倒的に答えにくいはずである。コトバが曖昧であるがゆえに、そのコトバの説明が経験的説明なのか還元的説明なのかも曖昧になってくる。この記事では、そのあたりを大いにごまかしている)
ゲームのうまさとはなんだろうか?
さて、「ゲームのうまさとはなんだろうか?」という問いに対しては、たとえばサーモンランでいえば「クリア率が高いことだよ!」「金イクラをたくさん入れられることだよ!」「野良ノーミスがたくさんできることだよ!」「デスが少ないことだよ!」「オオモノの処理数が多いことだよ!」などと答えることができる。これらは経験的説明と言えるだろう。たしかに、サーモンランがうまい人はこういった要素を持つ可能性が高い。以下、「デスが少ないことだよ!」を経験的説明の代表として話を進めてみよう。
一方で、還元的説明はこう答える。「ゲームのうまさとは、最適解を導き出す能力と、その最適解を遂行する能力の高さである」。(なお、この説明はいh7氏のツイートをわずかに編集して引用したものである。そして、いh7氏はこの説明をWB氏から引用したものだとしている。つまり、私はWB氏の言葉を孫引きしていることになる。ホントは原典を示せればよかったのだが、見つけることができなかった)
両者の違いは明白である。先に述べた経験的説明は、あくまで我々の経験レベルの説明にとどまっている。たとえば、我々は「いま自分うまかったなあ!」と感じたときに同時に「デスが少なかったなあ!」という経験をしていることが多い。だから、「うまい=デス少ない」という発想になるワケである。経験で経験を説明しようとしており、説明とその対象が同じレベルにある。
しかし後に述べた還元的説明では、ゲームのうまさを「最適解を導き出し、遂行する能力」という、より低レベルなコトバで対象を説明しているわけである。しかしここで、
「サイテキカイがどうのこうのって、余計ややこしくなってない? 『ゲームうまい』でいいじゃん」
という声が聞こえてきそうである。たしかに、一見すると矛盾のように思える。より基本的な単位に分解したはずなのに、かえって難しくなっている気がする! 実はこれは、科学の世界ではよくあることである。家を木材に分解し、木材を植物細胞に分解し、植物細胞を分子に分解する。より細かい単位にバラしていくにつれて、我々にとってはなじみが薄い概念になっていく。家や木材は認識できても、細胞や分子なんて見えないしわからない。しかしこのように要素を分割していくことで、より正確にモノの構造を知ることができるのである。
ちなみに、より抽象的で複雑な概念Aをより具体的で基礎的で根源的な概念Bによって説明することを「AをBに還元する」という(換言ではない)。「生物を細胞に還元する」とか、「化学を物理学に還元する」とか、「数学を論理学に還元する」とかいうふうに使う。一部のサーモンランナーが〈朽ちた箱舟ポラリスで満潮間欠泉を引くと莫大な快感が得られる〉ように脳みそを改造されているのと同じように、一部の科学者や哲学者は〈モノゴトをより根源的な単位に還元することに成功すると莫大な快感が得られる〉ように脳みそを改造されている。
ゲームのうまさとはなんだろうか? - 経験派 vs. 還元派
話をもとに戻そう。「ゲームのうまさ」の話である。「ゲームのうまさ」ひいては「サーモンランのうまさ」のことを「デスの少なさ」と認識している人(経験派)と「最適解を導き出し、遂行する能力」と認識している人(還元派)では、その振る舞いにどういう違いが生じるだろうか。
経験派と還元派からひとりずつサンプルを選んで用意し、両者に「サーモンランがうまくなりたい!」という欲望をスポイトで注入してみよう。それぞれなにをし始めるだろうか。
経験派は、サーモンランがうまくなるために、一生懸命デスを減らそうとするだろう。だって経験派にとっては、デスの少なさがサーモンランのうまさなのである。「じゃあ、デスを減らすためにはどうすればいいんだろう?」「そうか、とにかく敵から離れて逃げ回ればよいのだ! そうすれば死なないぞ!」――とまあ、ここまで極端に考える人は少ないと思うが、まったくいないことはないだろう。しかし、こうしてデスを減らした人はホントに「サーモンランがうまい」のだろうか。
還元派に言わせれば、それは違う。還元派にとっては「最適解を導き出し、遂行する能力」がサーモンランのうまさなので、サーモンランがうまくなりたいなら次のようにすべきだと言うだろう。すなわち、「この状態での最適解はなんだろう? まず自分にはこういう選択肢があって、味方はこういう動きをすることが予想できるから、じゃあ自分はこう動くのがクリア率を最も高めるのに最も有効だな」という判断力を磨き、そして自分の判断を実行に移すために必要なエイムやキャラクターコントロールといった操作力を磨くべきである、と。
還元派はさらに還元を試みるかもしれない。「判断力とはなんだろうか?」。判断力は「判断材料を集めて、それをもとに自分の取りえる選択肢を羅列し、その中から最善のものを選び取るチカラ」と言えるだろう。だから判断力を磨くためには、事前に知識を仕入れておき、現場でもたえずカメラを回して索敵をおこない、反復練習によって少しずつ判断の精度とスピードを向上させるといったことが必要になるだろう。
結局、「ゲームがうまい」ということの説明としてホントに正しいのはどちらなのだろう。ここまでの文章では還元派の肩を持ってきたが、経験派も間違っているわけではない。経験派の説明も還元派の説明も、当人にとってはそれぞれ正しい説明として機能する。
しかし、たぶん多くの人にとって、還元的説明のほうが説得力があるように感じられるはずである。経験的説明はあくまで本人の経験に由来するものなので、どこまでいっても主観的、すなわち「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」である。しかし還元的説明は、ただひたすらに対象を観察・分析してより高い解像度で解釈しようとする試みに過ぎず、本人の経験・体験に由来しない(それを目指している)。その意味で、還元的説明は経験的説明に比べて客観的である。そして人間というのは、モノゴトを客観的に説明されると、有無を言わさぬ納得感を感じてしまうようにできている。
実際のところ、どちらのほうがより早く、より高みまで上達できるだろうか。これはもちろん確実にはわからないが、私は還元派に一票を投じる。還元に還元を重ねることでより具体的な上達の道筋を考えられるようになり、そしてその道筋をたどることで確実な上達が見込めると私は思っている。
才能とはなんだろうか?
これについても考えてみよう。世の中には、スプラトゥーンのガチマッチを1000時間遊んでウデマエXになれる人もいれば、同じだけ遊んでもA帯が限界だという人もいる。こういうとき、我々は「才能が違うんだ」と感じるだろう。この「才能」とは?
もし私がいきなり見知らぬおじさんから「才能とはなんだ? マジメに答えなければぶっ飛ばすぞ」と聞かれたら、たぶん次のような感じで答えると思う。「才能とは『ふたりの人間に同じ環境で同じ訓練をさせた結果それぞれが得られた能力に差が生まれたとき、その差を生み出した原因』として探求されるモノ」。なんだか小難しい言い方になっていはいるが、先に述べたガチマッチの話を一般化しただけだ。つまり、これは経験的説明である。どういうときに我々が才能というモノを感じるかを説明しているだけだからである。
才能の還元的説明としてひとつ、「才能とは遺伝子である」という説明が考えられる。「才能」という輪郭のはっきりしないモノを「遺伝子」という明確なモノで説明しているので、還元的説明と言ってよいと思われる。実際、これは才能の一面を捉えているだろう。しかし正直なところ、これはあまり説明になっていないように感じられる。「で? 遺伝子って2万個あるんだけど、どの遺伝子がどう作用してるってワケ?」となるだけだからである。輪郭はハッキリしたものの、輪郭の中身はさっぱりわからない。
このほか、「才能とはその対象を好きでいつづけられること」という説明もある。それを好きでいられれば、苦労を苦労と思わずに、努力を努力と思わずに、自然とその対象に打ち込み、能力を向上させることができる。これはたしかにうなずけるところがある。
しかし「下手の横好き」という言葉があるように、ゲームが好きでも下手という人はいくらでもいるし、べつに好きじゃないがやったらめちゃめちゃ上手という人もいる。やはりこの説明も、才能の一面を捉えているに過ぎない。
才能とはなんだろうか? - 才能とは○○○○である
才能という概念は複雑で、いろんな角度から説明することができるようである。上に挙げたふたつの説明はありふれたものだが、まだ挙げていない説明もある。私がTwitterで見て感銘を受けた才能の説明があるので、紹介しよう。
またもや元ツイートを探すことができなかったのでリンクを示すことができないが、私が感銘を受けた才能の説明というのは、「才能とはこだわりである」というものだ。
たとえばあなたはトイレで用を足すときの自分の姿勢にこだわりはあるだろうか? 便座にどれだけ深く座るか、身体の重心をどこに置くか、脚の開き具合はどうか、力むときの筋肉の使い方はどうなのか。おそらく多くの人は特にこだわりもなくぼんやりと排便をしているのではないか。
サーモンランでたとえよう。ゲームが始まってステージに舞い降りたら、あなたはブキを支給される。そしてウェーブが始まるまでの約10秒間は自由時間となる。あなたはその自由時間で自分がウェーブ中に動きやすいように床や壁を塗ることだろう。そのとき、あなたは自分が塗る場所にこだわりを持っているだろうか。
こだわりがある人なら、まず「ウェーブ中にどこの壁や床が塗られていたら役に立つだろう?」と考える。そして「10秒間中にこことここの壁を塗って、塗り終えた瞬間にはここのポジションにいるのがベストだろう」と考える。どこを塗るかを決めたらあとは実行するだけだ。立ち位置やエイムの位置に気を付け、インクの1粒も無駄にしないように注意して塗りを広げる。このこだわりの強さこそが才能というもののひとつの側面なのだ。
上記のような「才能=こだわり」論をTwitterで見かけたとき、私は感動した。才能、というよくわからないものの一面をとてもうまく言葉で説明できているように感じたからである。
それだけではない。「才能=こだわり」論が本当に素晴らしいのは「こだわりを持つことは誰にでもできる!」という点だ。もしあなたがふだんトイレで用を足すときの姿勢にこだわりがなくても大丈夫。今日から新しくこだわりを持ってみればよいのである。どのような姿勢で、どのような筋肉の使い方で用を足すのが最適なのか? こだわりを持って臨めばみるみるうちに最適化が進んでいくのではないだろうか。