月刊ガンジー5月号

主にアンレールドとサーモンランについて書く思考録。

ガンジー・ウンチ Vol.3

こんにちは。ガンジー・ウンチ Vol.3である。

これまでのガンジー・ウンチでは前置きウンチが4000~5000字ほどあったのだが、今回からはそちらは割愛することにする。Vol.2に書いたとおり、ウンチがネタ切れになってきたからである。前回の記述を見て「またまたぁ、フリなんでしょ? そういっておいてまたウンチドカ盛りするんでしょ? むしろアレが本編なんでしょ?」と期待してくれた方がいたとしたら、申し訳なく思う。ホントにないです

ちなみに、大昔にニコニコ動画で「おまけが本編」というタグを見かけたことがある。私がそのタグを見た動画の内容はたしか「ポケモン金銀のジムリーダーや四天王をLv5のポケモンで攻略する」というものだった。「おまけ」というのは、「ドーピングの最中や敵のPP切れを待つ時間が動画的に退屈になってしまうので、そのあいだにポケモン赤緑の対戦史を語る」というもので、たしかにその内容は本編よりも興味深いと言えば興味深かった(だって言ってしまえば、本編は結局どの回も相手のPPを切らしてドーピングしてあとは対戦中のレベルアップで殴るだけなので)。ただ、あのタグを動画に付ける人に悪意はまったくないと思うが、あれはけっこうクリエイターに失礼な場合があるのではないかと私は当時から思っている。だって、そのクリエイターが丹精込めて作った本編をおまけ以下扱いしているということだからである。

話がさらに逸れるが、上で述べた動画のポケモン対戦史はたいへん面白かった。正直に言って、私は日本史や世界史にはぜんぜん興味が湧かない。私は興味のないものを記憶するのがホントに苦手なので(興味のあるものですら忘れがち、悲しい)、学校の歴史の勉強は苦痛であった。しかしポケモン対戦史は面白くて、「これこれのポケモンがこういう特徴によって強さを発揮して、それに対するメタでこのポケモンが台頭してきて、それを受けて大会のルールが変更されて環境ががらりと変わって……」という話は聞いていてわくわくしたものである。だから、そのサーモンラン版(正確に言えば「Twitterサーモンラン界隈史」ということになるだろうか)みたいなものもあったらぜひ見てみたいなあと思う。なお、私にはそのようなものは作れない。私は最初期からTwitterでサーモンランをしていたわけではないし、あまりむかしのことを覚えていないし、まめに記録を残しているタイプでもないので。でも、だれかが作ってくれたらぜひ見てみたい。

といったところで、今回のテーマは「期待」である。これについて、いくつかクイズを出してみよう。

Q1. 私は配信をするうえで「ある笑い方」はなるべくしないように努めている。その「ある笑い方」とは?
Q2. 私はプロフィール画像に「ある画像」は使わないと決めている。その「ある画像」とは?
Q3. Q1とQ2は同じ理由にもとづいている。その理由とは?

 

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Q1. 私は配信をするうえで「ある笑い方」をしないように努めている。その「ある笑い方」とは?

さあ、どうだろう。これはあとのQ2よりも難しいかもしれない。私はある笑い方をなるべくしたくないなあと思っているのである。汚い笑い方? それとも下品な笑い方、大きな声で笑う、引き笑い、高笑い、つばが飛んでそうな笑い……? いやいや、そうではない。もう少し表現を限定したほうが答えやすいだろうか。

私は〇〇〇〇な笑い方はしないように努めている。〇〇〇〇に入る言葉は?

〇〇〇〇にはひらがなで4文字の言葉が入る。これで答えやすくなっただろうか。むしろ難しくなったかもしれない。豪快な笑い方? 強そうな笑い方? ちょっと違う。

 

……

 

…………

 

……………………

 

さて、正解は……さわやか」である。私は爽やかな笑い方はなるべくしたくないと思っている。

「えっ?」と思うだろう。「なぜ?」あるいは「どういうこと?」と。もしかすると「ふつうにしてることない?」と思われるかもしれない。だとしたら私の努力不足である。

理由はちゃんとあるのだ。その根っこはQ2と共通している。これについてはQ3の答えとしてあとで書くことにする。

 

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Q2. 私はプロフィール画像に「ある画像」は使わないと決めている。その「ある画像」とは?

こちらのほうがわかりやすいかもしれない。それは、男性が動画投稿や配信などをしていると――特に肉声付きで活動していると描かれる可能性のある代物である。しかし、たとえ私がだれかからファンアートとしてそのような画像をいただいても、私がそれをTwitterやDiscordのアイコンとして使うことはないだろう(むろん気持ちと作品自体は謹んで頂戴すると思うが)。なんとなくわかっただろうか。

私が使わないと決めている画像は「イケメンや美少年のイラスト」である。今後心変わりする可能性が100%ない、あったら殺してくれてかまわない、とまでは断言しないでおくが(私は賢いのだ)、いまのところそのようなイラストをプロフィール画像に使うつもりはない。プロフィール画像にしてもよいと思えるのは、たとえば卵に棒の手足が生えたようなイラストや、イカガールのイラストなどである。

 

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Q3. Q1とQ2は同じ理由にもとづいている。その理由とは?

すでにQ1Q2の答えは説明した。それらの理由が共通している、つまり、「爽やかな笑い方をしない」「イケメンのイラストをプロフィール画像にしない」この両者の理由が同じということである。ここまで来たら答えはもうすぐそこだ。

この答えは「実態と著しくかけ離れた、優れたイメージを与えないため」。もっと簡潔に言えば「幻想を与えないため」である。「期待させないため」と言ってもよい。(オッ、ちょっとテーマにつながってきたぞ)

そもそも私は非常にねちっこく陰気な性格である。その場で直接言えばいいことをあとから陰でぐちぐち呟くのは日常茶飯事。たまに直接言ったかと思えば皮肉っぽく、嫌みったらしく、いちいち遠回しな言い方でひねくれていて口が悪い。そのくせして、ガンジー・ウンチ Vol.2では「〈察する〉を相手に要求するコミュニケーションはダメ!」みたいなことを主張しているのだから、いやもう、たちが悪いことこのうえない。なんだこいつ!

そんな人間が「なんか爽やかな笑い方してるなあ」という理由だけでまるで全身爽やか人間みたいな評価を頂戴してしまうのは、ばつが悪く、後ろめたい。黙ってその恩恵にあずかるのは不誠実だと思うのである。

そんなわけで、私はせめてもの抵抗として「爽やかな笑い方はしない」という努力をしている。どちらかというと私は弱そうな小物っぽい笑い方がしたい。継続というものは大したもので、自分のなかでは小物っぽい笑い方がだいぶ板についてきた。もうほとんど癖のようなものだ。

プロフィール画像のほうもまったく同様である。べつに私はイケメンではない。ちなみにこの「イケメンではない」というのは、私に許された(=ウソにならない)容姿の形容のうち最上級の部類に入る。「イケメンではない」が真のとき、たとえばイケメンの範囲を上位25%とするならば、私には75%の可能性が残されていることになる。なんという温情措置だろう。これより温情のある表現となると、「福山雅治に似てはいない」とか「若かりし日のデビット・ベッカムに似てはいない」とか、そういう形容になってくる(形容?)福山雅治に似ている人の割合を5%ほどに見積れば、私には95%もの可能性が残されていることになるだろう。

そもそも私は、自分がイケメンだったらスプラトゥーンを5000時間プレイしていたかどうかわからない。たぶんしていないのではないかと思う。私にとってスプラトゥーンはあくまで娯楽のひとつであって、生まれ変わってもまた出会いたいというほどの仲かと問われれば、よくわからない。だから、イケメンなのにスプラトゥーンを5000時間プレイしている人は本当にスプラトゥーンが好きなんだなあと思っている。

さておき、そんなわけで、イケメンのイラストをプロフィール画像にしてしまうと、それを私と同一視される恐れがある。それで単に配信の視聴やコメントをしてくれるだけならよいのだが(それだけなら、むしろこんな記事を書いて幻想を壊すほうが無粋だったかもしれない)、その幻想宛に金銭的な支援などが贈られたらエラいことである。私は幻想本人ではないので、受け取り手がいない! しかたなく私が代理で受け取るしかないのだが、幻想はお金を使わないので、これまた代理で私がお金を使うことになるだろう。これでは、なんというか、神仏への供物で私服を肥やして高級車を乗り回す坊主のようである。

しかし! 卵に棒が生えたイラストをプロフィールにしておけば、それがただの私の仮想的なアバターであることがまるわかりである。まさか現実世界の私がそのような姿をしていると思っている人はいまい。イカガールのイラストも同様である。私は男なので「このイカガールはただのゲーム上のアバターである」という認識を持ってもらいやすいだろう。

非常に微妙なラインなのはイカボーイのイラストである。幸い私はイカボーイでスプラトゥーンをプレイすることはないので、イカボーイのイラストをいただくことはない。しかし、もし自分がイカボーイでプレイしていてそのイラストをいただくことがあったら、私はどうしただろうか。もちろんイカボーイだってゲーム上のアバターに過ぎないが、イカボーイの造形は人間にたいへん近い。耳のとんがった人間を描いて目の周りを黒く塗ればだいたいイカボーイである(このような言い方をするとイラストレーターの方からお叱りが来るかもしれない)イラストレーターによっては目の周りを黒く塗るどころか目と目の間にシュッと黒い線を引くだけで表現を済ませることもある。このような造形では、やはりイラストと私本人を同一視される可能性がそこそこあるのではないかと思う。

ちなみに、合理主義的な人からはこのような指摘があるかもしれない。

幻想を抱かせたくないと言うなら顔出しすれば解決では?

これはもっともである。幻想を抱かせないための究極の解決方法である。とはいえ、多くの日本の配信者が顔を出すことがないように、私も顔を出したいとは思わない。それが100点の解決方法であることは承知だが、100点でなければ0点というわけでもない。ここで私は自分に都合よく「完璧主義(百ゼロ思考、オール・オア・ナッシングともいう)にこだわる必要はない」という考えを発動する。で、結局、イケメンのイラストはプロフィールにしない、というのが個人的な落としどころなのである。(ちなみにどうでもよいが「落としどころ」は私の好きな言葉ランキングのけっこう上位に入る言葉だ)

 

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というわけで、私は人に期待させないために上のような考えを持っている。なぜ期待させたくないかと言うと、私がその期待を裏切ることが確定しているからである。まあ裏切ると言っても、私は顔出しするつもりもなければニコニコ超会議のようなオフの場に出席するつもりもないので、「裏切る瞬間」なるものが訪れることはないと思うが、私からすれば常に裏切っているようなものだ。

私はいろんな人の期待を裏切り続ける人生を送ってきたので、人から期待されるということが(超大げさな言い方をすれば)トラウマに近い。人からされたくないことランキング上位に間違いなく「期待」がランクインする。私にとって期待はつねに落胆とセットだからである。

しかし、次のように言う人がいるかもしれない。

人から期待されたくないってお前、そりゃ甘チャンだよ。いつまでも赤ん坊の土俵で戦いたいってことだろう?『なにもできなくて当たり前』というところまでボーダーを下げて、できて当然のことで『すごい』『偉い』と褒められたいんだろう。バカ野郎! 大人ってのはいつだってみんなの期待を背負って戦うものなんだぜ

……

わかる。わかるが、私には難しい。

だからこそ、私は他人に向かって「期待してくれよな!」と言える人が心底カッコいいと思う。「うおお、男らしい!」と思う。そのうえで期待に応えてくれたらもはやヒーローである。ちなみに私がTwitterで拝見するサーモンラン配信者で特にヒーロー性が強いと感じるのは、すごろくさん、みゆみゆーさん、モットさんなどである(五十音順)

だいたいなあ、期待ってのはみんな自然としちまうものなんだよ。街角でうまそうな屋台を見かけたら食いてえなあってなるだろう。期待ってのはそれと同じくらい自然に生まれる感情なんだ。そんな人の自然な感情を否定する権利がお前にあるのか? これは制限されなければいけないほど有害な感情なのか?

ここまで言われると「たしかにそんな権利ないかも」と思ってしまう。それならせめて最初から期待されぬように先回りして釘を刺しておこう、というのが私のセコい考えである。

実際のところ、仕事なら期待に応えねばならないのは当然である。仕事とはなんらかの商品をお金に変換することであり、その商品を買う人は商品に(少なくとも値段分の)期待をしているわけである。その期待に応えられなければリピートが得られない。商品の説明をするときに「あまり期待しないで」などと言ったら上司にぶっ飛ばされる。むしろ値段以上の期待を煽るために多少ふかすことのほうが多いだろう。しかし私は、プライベートでは期待から解放されたいなあと思う。

ちなみに、私はべつに赤ん坊扱いされたいとはまったく思わない。むかしTwitterで「生きてるだけで褒めてくれる女の子」のイラストが流行っていたように記憶しているのだが、私はあれを見てもバカにされているようにしか感じない。

 

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ちなみに、私が受けがちと感じる期待の一例に「頭よさそう」がある。

ふむ、どうだろう。私は頭がよさそうだろうか? 実のところどうなのかわからないのだが、どうも私には頭よさそうな雰囲気を醸し出す才能だけはあるらしい。私はその才能を遺憾なく発揮し、いままで両親や教授を何度も騙くらかしてきた。

それ、おせじを真に受けているだけでは?

そうかもしれない。ただ、それは私の視点からは判別不可能である。おせじかどうかの判断は、いまこれを読んでいるあなたにお任せしよう。

私がホントに頭よさそうに見えるとして、ずいぶんむかしに「なぜそう見えるのだろう?」と考えたことがある。そのときにヒントになったのは「公正世界仮説」であった。

公正世界仮説というのは、弱者、犠牲者、被害者を叩く人の心理を説明するのによく持ち出される仮説である。だいたいこんな感じの内容だ。

この世界は、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるようにできている。善いことをすれば報われる。悪いことをすれば罰される。逆に言えば、犯罪の被害に遭った人間はなにか悪いことをしてたってことさ

世界がこんなふうにできていると本気で信じているかはともかくとして、無意識のうちにこのような認識を持っている人は意外と多いのである。

たとえば、痴漢の被害に遭った人に対して「お前から誘ったんだろ」と非難するのが、公正世界仮説にもとづく主張の典型的な例である。このような主張をする人は無意識のうちに次のような認識をしていると考えられる。

なにも悪いことをしていないのに痴漢に遭うだなんて、そんなことがあってたまるか! ひどい目に遭った人は、きっとなにか悪いことをしたに違いない。だからひどい目に遭ったんだ。そして自分は悪いことをしていないから、そんな被害に遭うことはないはずだ

この説が妥当かどうかは置いておくとして、私はこれを見たときに「ようするに〈この世界はバランス調整されている〉と信じられているってことか」と解釈した。善い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が返ってくる。それはつまり、バランスが調整されているということではないか。これはもとの公正世界仮説とは意味合いが変わっているので、「バランス調整説」とでも呼ぼう。

バランス調整説に根差していると思しきことわざに「天は二物を与えず」がある。「ひとりの人間に天賦の才がいくつも与えられることはない。だいたい、なにか才能があればそのぶん欠点を抱えているもんさ」といった意味合いのことわざである。日常的なところでは、美しい女性に「性格悪そう」と言ったり、ハンサムな男性に「遊び癖ありそう」と言ったりする例がある。

これを私の事情に当てはめてみる。するとこうなる。

この見た目で頭がよくなかったら、バランス悪いな……。この世界はバランス調整されているのだから、たぶん頭がいいはずだ

これで私が頭よさそうに見える理由を説明できる。

……

ということを、ずいぶんむかしに考えた。しかし、この仮説には重大な欠点がある。

たとえばいま、あなたが私のことを頭よさそうだと思っているとしよう。たぶんあなたは、私の容姿を見たことはないはずである(あると言われたらびっくりする!)。となれば、先ほど説明したバランス調整説は機能しなくなる。別の要因、たとえば文章や話し方などに頭よさそうな雰囲気があるのだろう、という話になってくる。しかしそれについてはまだ深く考えたことがない。

 

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ただし、ここからちょっと複雑になってくる。

上で書いてきた「期待されたくない」という感情は、ぜんぜんめずらしい感情ではない。むしろありふれている。インターネット上では、期待されたくないがゆえの言動をいくらでも見ることができる。たとえば、自分で描いたイラストを投稿するときに「下手ですが><」「落書きですが><」などの言葉を添えるのは、まさに期待されたくないからであり、「褒め」のボーダーを下げたいからである。

私はそれを見てどう思うか。私だって期待されたくない族なのだから、「あ~わかるわかる、僕も期待されたくないからね。どれどれ……ふ~ん、めっちゃ上手じゃん!」というふうに、同族に対して優しい感情を抱く……と思ったら大間違いである!

実は私は、この手のやたら自分を卑下(自虐)する言葉が好きではない(自分だって期待されたくない族のくせに、なんて身勝手なのだろうか)

特に、明らかに平均以上の水準にありながら「僕はゴミカス下位人間です」と自虐するのはホントによくないと思っている。なぜか?

たとえば、私が「サーモンラン超下手です><」と言ったらどうだろう。さすがに客観的に見て、明らかに私のサーモンランの腕前は平均より高い水準にある。〈平均〉を算出する母集団をかなり上澄みまで絞れば私の腕前が〈平均〉以下であるとすることも可能だと思うが、そこまで絞られた母集団はあまり一般的であるとは私は思わない。

で、私が「サーモンラン超下手です><」と自虐したとき、必ずそれで不愉快になる人が生まれる。すなわち、「お前が超下手だったら、オレはいったいなんなんだよ…!」という人が出てくるということである。実際、もし私が逆の立場で、自分よりはるかに上手な人が「俺なんかヘッタクソだよ(笑)」とか言っていたとしたら、決して愉快な気持ちにはならないだろう。べつに「謙虚な人だなあ」とも思わない。

(他人の自虐が不愉快に感じるパターンはほかにもある。自分が好感を抱いている人が自虐するパターンである。自虐というのは、つまるところ、自分への悪口である。自分が好感を抱いている人が自虐するということは、自分が好感を抱いている人が悪口を言われていることに等しい。それは当然、愉快ではないだろう)

このように、高い水準にある人が自虐を表明すると、必ずそれを不愉快に感じる人が出てくる。となると、「じゃあ、どの水準からだったら自虐してもいい(不愉快に感じる人が生じない)の?」という疑問が出てくるが、そんなものはない

下位30%の人が自虐すれば、下位3%の人から「オレなんてもっと下だぞ!」と不満が表明される。下位3%の人が自虐すれば、下位0.3%の人から「オレなんてもっと下だぞ!」と不満が表明される。下位0.3%の人が自虐すれば……と、これがいつまでも続く。

下を見ればきりがないので、「この水準だったら自虐しても誰からも不満が出ない」という水準はないのである。だから、自虐している人に「お前くらい高水準なヤツが自虐してるんじゃねえ!」と噛みつくと、必ず自分も他の人から「いやいやお前だって」と噛みつかれることになる。

となると、そもそも他人の自虐で不愉快に感じるほうが不合理だという話になる。他人の自虐で不愉快になるような人が生まれないようにするためには、「誰も自虐しない」しかない。そんな世界はあまりに息苦しいだろう。

だいたい、人から嫌われないようにとか、人に不愉快にさせないように、というのは土台無理なのである。よくTwitterで「人生を生きやすくするためのアドバイス」として「人から嫌われたくないという考えを捨てろ! そんなの、無理だから!」という内容のツイートがバズっている。私もそれが正しいと思う。

しかし「他人の自虐で不愉快に感じるほうが不合理」「人からまったく不愉快に思われないというのは不可能」というのは理解するが、だからといって好き放題自虐放題、というのも私はなるべくしたくない。

なるべくしたくないと思いつつ、生配信なんかでは「自分下手だな~」とこぼしてしまうことも多い。しかし、なるべくTwitterでは避けたいと思う。

 

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私は他人から期待されたくないので「オレ、ウマいよ!」とは言いたくないのだが、一方で「オレ、ヘタクソだよ!」とも言いたくない、ということを上で書いてきた。なにも言えなくない?

そう、この挟み撃ちを食らうことによって、自分の水準についてなにも語れなくなってしまうのである。そして実際、私は自分の水準について(というかそもそも自分について)多くを語らないことにしている。

しかし、語らないよりは語るほうが面白かろうから、そして語ることで嫌われるよりは好まれるほうが多かろうから、たまには語ってもよいか……なんて思いながら、いまガンジー・ウンチ Vol.3を書いている。今回はこのあたりで筆を置こう。

お読みいただきありがとうございました。