月刊ガンジー5月号

主にアンレールドとサーモンランについて書く思考録。

ガンジー・ウンチ Vol.4 『人間関係リセット症候群』

人間関係リセット症候群』という言葉がTwitterでトレンド入りしていたので、それについて筆を取ってみようと思う。なお、一般にその言葉で表現されている内容が私の想像しているものと一致しているかどうかは知らない。知らないまま、勝手に書く。そしていつも通り、あちらこちらに話が脱線するに違いないことを始めにお断りしておく。

いきなり勝手な話をするが、私は『人間関係リセット症候群』という言葉にあまり耳慣れない。それよりも『人間関係リセット癖』という言葉のほうがしっくりくる。「いやどっちもおんなじやんけ!」という非難は甘んじて受け入れることにして、この記事では個人的になじみのある『人間関係リセット癖』のほうを使わせてもらおう。

私の『人間関係リセット癖』のイメージは「数年あるいは数十年というスパンでの長期的・継続的な人付き合いができず、人間関係の保持にコストを支払わなかったり、あるいは能動的に人間関係を希薄にしたりする」といった感じである。

そして、私は自分のことを「『人間関係リセット癖』のある人間である」と認識している。だからなのか、いま自分が『人間関係リセット癖』について話しているのか、自分自身について話しているのか、自分でもわからなくなる。いままさに、わからないまま書いている。その解釈は読者にお任せしよう。

さて、『人間関係リセット癖』というと、なんとなく「SNSのアカウントを消す」とか「電話番号を変えて音信不通になる」とかいうことを想像してしまう。しかし、そうでなくとも人は環境の変化によって否応なしに人間関係をリセットさせられる。クラス替え、進学、就職、転勤、転職などがそうである。そうした環境の変化による強制的な人間関係リセットに逆らい、抗って、過去の人間関係において友人だった人物とLINEで継続的に連絡を取り合い、盆や正月あるいは人生の節目に「ちょっと酒でも飲もうぜ」と集まる。このような『過去の環境の人間関係の維持』は、たぶん多くの人がごくふつうに行うことなのだろうと思う。たぶん、などと曖昧な言い方をしているのは、私がそれをしてこなかった人間だからである。

現在私は、小中学生時代の時代の人間と一切付き合いがない。一応当時友達がいないわけではなかったが、友達だった人間との関係を維持することに私はまったく労力を割いてこなかった。なぜか? 明確な理由はない。私ははっきりした根拠や理由に基づいて自身の言動を決められるほど理性的ではないので(あるいは当時考えていたことを思い出せるほど記憶力が良いわけではないので)、いつも自分の言動からさかのぼってその理由を推測することになる。今回もそうだ。思うに、「当時の自分の境遇が自慢できるものではなかったから」とか、「実はそもそも思っていたほど仲が良いわけでもなかったから」とか、あるいはそれこそ「『人間関係リセット癖』があるから」かもしれない。

以上のように「過去の環境における人間関係の維持に努力を払わない」ということも『人間関係リセット癖』の一例になると私は思っているが、一般に『人間関係リセット癖』という言葉から想起されるのはもっと能動的なことかもしれない。たとえば先述の『SNSのアカウントを消す』とか、そういうやつだ。もちろん、私はそちらの方面の人間関係リセットもばっちりである。

といっても、現実で「電話番号を変えて引っ越しして…」というような大仰な雲隠れをしたことはない。あくまでネットの話である。私がいままでネットの海に捨ててきたハンドルネーム(いわばネット人格)の数を数えるには、片手では足りない。まあ、両手があればなんとか足りるのではないかと思う。(ちなみにどうでもいいが、この文章を読んで「片手でも二進法を使えば31まで数えられるヨネ!?」などとツッコミを入れてくるタイプの人とは、私は心からは仲良くなれないだろうなと思う)

ただ、いま思うと、「人間関係が嫌になってリセットを図った」というよりは、単に「モチベが無くなって失踪(自然消滅)した」というほうが実態に近いかもしれない。たとえば私はニコニコ動画で、動画投稿のやる気が途中でなくなって失踪した自分のアカウントを少なくとも3個思い出せる。どのアカウントも削除はしていないので、いまでも当時の動画が残っている。また、私は大昔に『合成ポケモン(合ポケ)』と呼ばれる遊びに熱心だった時代があり、当時は掲示板に出入りしたりHTMLを勉強して個人サイトを作ったりしていたものだが、そのうち飽きてしまって関わりがなくなった。そして、他の趣味でも似たようなことを繰り返してきた。

おや、なんだか雲行きが怪しくなってきた。私は『人間関係リセット癖』の話をしているつもりだったのだが、なんだか「ただ飽き性で趣味が長続きしなくてコミュニティを転々としてるだけじゃねーか!」というツッコミを自分に入れたくなってきた。いやまあこれも、人間関係のリセットには違いない。

閑話休題。私は、能動的な人間関係のリセットには2種類あると思っている。すなわち「唐突に消える」か「徐々に消える」かである。Twitterでたとえるなら、ある日突然アカウントが消えているパターンと、徐々にツイート頻度が減っていき気が付いたらまったく浮上しなくなっているパターンの2種類である。

このふたつは私が思っているほど明確に区分できるものではないかもしれないが、私はどちらかというと「徐々に消える」タイプの人間だと認識している。というより、もし自分が消えるとしたら「徐々に消える」ほうを選ぶだろうなと思っている。その思考のステップを明かそう。大体こんな感じである。

①まず、うすぼんやりと「めんどくせえなあ」「消えたいなあ」という願望を抱く。

②しかし同時に、(実践・実現できているかは別にして)一応人並みに「なるべく人に迷惑をかけたくない」という規範意識あるいは価値観というべきものを持っている。

③そして、「唐突に消えると(徐々に存在感を消していくよりも)人に迷惑をかけることになる」と認識している。たとえば、仕事があるのに消えれば仕事の関係者に迷惑をかけてしまうし、遊びの約束があるのに消えればその約束を台無しにしてしまう。ようするに『自分の未来の関係者』に迷惑をかけることになる。さらに『唐突に消える』こと自体が周囲の人に心理的なショックを与えてしまう。

④しかし、徐々に人付き合いを減らして人間関係を希薄にしていけば『自分がホントに消えたときに周囲に与える迷惑やショック』を減らすことができる。

⑤こうして、「自分はいつ消えてもいいのだ!」という安心感が得られる。

⑥やがて、ホントに消える。

まあ、ホントに消えるには多少のエネルギーが必要であることと、⑤で得られる安心感が精神安定剤として機能することから、実際には⑤でとどまり⑥に至らない可能性が高い。

ところで、『安心感というのは非常に強力な快楽の一種である。合法ドラッグと言ってもよい。たとえば、人々を魅了してやまない安心感のひとつに「収入がなくなっても大丈夫」というものがある。「事故に遭っても大丈夫」「仕事を辞めても大丈夫」という安心感を得るために、巷の人間は日々せっせと貯金したり、保険に入ったりする。貯金や保険は、自分が実際にそのような状況(事故に遭うとか)に陥るかはさておき、「そのような状況に陥っても大丈夫なんだ!」という安心感を日々の生活に与えてくれるのである。

話を戻そう。「自分が消えても大丈夫」というのも、やはり安心感のひとつに違いない。「人間関係が希薄である=自分が消えても大丈夫」という状況は、うすぼんやりと「消えたいなあ」と思っている(あるいはそう思うことがある)人間に安心感を与えてくれる。逆に「継続的な人間関係がある」「先の予定がある」ことは、むしろ不安のタネになりうるのである。なにが安心材料でなにが不安材料なのか、このあたりの事情は人によっては正反対になることもあるだろう。興味深いことである。

さて、この文章ではここまで「消える」という言葉を使ってきた。「消える」とは、ネットにおいては失踪やアカウントの削除を意味するが、現実世界では一味違う意味を持ちうる。それは「死ぬ」という意味である。

厚生労働省が公開している『自殺対策に関する意識調査』を見ると、日本の若者のうち2~3割が「自殺したいと思ったことがある」らしい。もちろん標本の偏りがいくらかあるとは思うが、意外と多い。どうやらそれほど特別な存在ではないようでちょっと残念(?)だが、私はその2~3割に該当する人間である。いやはや自称陰キャたるもの、「死にてえなあ」と思った経験が一度や二度では務まらない。「死にてえなあ」と思ったこともない人間が陰キャを自称するのは、スプラトゥーンでウデマエXの人間が「俺なんて全然底辺だよ~w」というのに似ている。本当に下手な人にはイヤミにしか聞こえない。

で、「死にてえなあ」と思ったときによくやるのが、まさに①~④の人間関係のリセットなのである(リセットというより破棄と言ったほうが正しいかもしれないが)。つまり、私がいままでの人生で何度か敢行してきた人間関係のリセットは、自殺の下準備という意味合いを含んでいた。世のすべての人間関係のリセットがそうした理由で行われていると言うつもりはまったくないが(実際いろんな理由があるだろう)、少なくとも私についてはそのような事情がある。

さて。大変ぶつ切りになるが、自称『人間関係リセット癖』人間として書きたいことをあらかた書き終えたので、今回はこのへんで筆を置こうと思う。一口に『人間関係リセット癖』と言ってもそのリセットの仕方は様々であり、その理由や目的もまた様々である。ということを、この文章を書きながらしみじみと思った。この文章を読まれた方にも何か参考になるところがあれば幸いである。ちなみに、読者諸君にはぜひとも私の真似をせずに、むしろ私を反面教師にして、旧友との付き合いを大事にしてほしいと思う。(もっとも、多くの人は私に言われずともそうしていると思うが……)

注意》現在、私の手帳に自殺の予定は書き込まれておらず、というか手帳など持っていないし、とりわけ「死にてえなあ」とも思っておらず、またネットにおけるガンジー人格およびそれにまつわる人間関係を消去する予定もいまのところまったくない。読者の一部は上記の文章を読んで『いまにも手首を切りそうな鬱々とした筆者像』を思い浮かべるかもしれないが、それは『実際の私』とはあまり一致しない。実のところ私は基本的に快楽主義者の楽天家であり、無根拠に「まあなんとかなるだろ」と思うタイプの人間である。ふつうにめちゃめちゃ元気である。誰かから勝手に慰められたり憐れまれたりすることは望まない。むしろそのような行為には不快感と拒絶感を示す。これはちゃんと書いておこう。

最後に、まったく関係ないが(関係なさすぎて罪悪感すら覚える)、個人的に好きなYouTubeのゆっくり解説チャンネルへのリンクを張って終わりにする。科学史哲学史が好きな人はたぶん気に入ると思う。

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それでは。